推敲しません。

胸の内から溢れ出てしまった、主に本や音楽などへの想いを置いておくだけの場所。なので推敲しません。誤字脱字勘違いあり。

八月の終わり、四ツ谷「にて」

2019.08.31

四ツ谷 STUDIO d21にて開催のアートイベント「artPotluck」へ。様々な表現作品から、アーティストのエネルギーを頂いてきた。

Book cafe「にて」の 新作パフォーマンスも、
四ツ谷にちなんで「四谷怪談」をモチーフにされたそう。


予想していたのは、背筋がゾクッとするようなモダンホラーのような物語と、悲しく美しく少し陰惨な絵と音楽。だけど、はい、残念、大ハズレ。あくまで私個人が受け取ったイメージ・メッセージですが、先ず「陰惨さ」は皆無。どこまでもロマンティックで、切ない愛情物語り。だったなぁ、私にとっては。
今作のコンセプトとして、『古典の更新 』と言うテーマが挙げられていたけれど、こう言う事なんだな。文学担当の石倉康司さんの解説によると、古典の四谷怪談からモチーフとして取ったのは、「愛した男を待っている女の幽霊」と言う事だけらしい。情景描写なども、四ツ谷の街が思い浮かんだけれど。

音楽とライブペインティングと物語りの朗読が同時進行する、即興要素が強い「にて」のアンサンブル。本を読んでいるようにストーリーだけが入って来るわけではないので、正確ではないけれど、登場人物たちのやりとりで印象深かったシーン。「ずっとベンチに座っている女の幽霊が出るんだ」とある男が言うと、「僕は目に見えないものは信じないんです、僕はリアリストなんですよ」と、話し相手の男が返す。「目に見えないから、信じないなんて。愛だって目に見えないけれど、愛が存在しないなんて事はないだろう?幽霊は愛と同じなんだよ」・・・と言うような感じのやりとり。

愛と幽霊は一緒かぁ、なんと素敵な上手い表現!と、失礼ながら膝を打った。

これを書くとかなりマニアックで脱線しちゃうんだけど、英国のオカルト研究とか交霊会の記録とか、まじもんの「霊魂」関係の本もかなり読んだ時期があったので、そのウンチクを踏まえて言わせて頂くと、「愛と幽霊は同じ」と言う表現は、なかなかの真理ではあると思う。まぁ・・・こう言う話しは、唯物論者のいらっしゃらない所でコソコソするものかな。

さて、「にて」の3名のアーティストの発する表現のエネルギーは、綺麗で軽やかな光が強い。(もし見えたとしたらそんなイメージ、と言う意)
光が強ければ当然影も濃いはずだけど、その影も湿り気がなく、湿った陰惨な気配のものをモチーフにしたとしても、濾過されて洗練されて、軽やかなものになるような。それを「ポップ」であると言えるのかわからないけれど、そうなんだと、私は思う。ポップである、通しかわからないような難解でアカデミックなだけのものにしない、のが、「にて」の、受け取り手・観客への、愛、かな。

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愛の幽霊の仕業かわからないけれど、女の幽霊の正体が明かされて行くあたりから、ダムが決壊したみたいに目からドバドバ水が出て来て驚いた。
耳は小畑亮吾さんの美しい音楽にも奪われていたし、目も、軽やかで情熱的なきたしまたくやさんのライブペインティングに奪われていたから、「ストーリーに感銘を受けて泣いている」と言う自覚もなく、本当に「目から水が出てくる」感覚。不思議だったなぁ・・・。

芸術・表現作品と言うものには、自覚していない深層心理をグイグイえぐられたりするから、私の胸の内の深い所の何かが反応したのかもしれないし、愛の幽霊がやって来て私の目を借りて涙を流したのかもしれないし、どちらでも構わないけれど、夏の終わりのミステリアスな体験、として良い思い出になった。
顔が海水浴したぐらいしょっぱくなったので(化粧もほぼ落ちました)、夏休みっぽさも味わえた・・・かな? 夏の終わりは、大人になってもなんだか切ないなぁ。などと言っているうちに実りの季節がやって来て、季節は巡るんだね。

母の日にMotherなアーティストを想う

母の日だった。子供達からのプレゼントは、どんなものでもいつだって泣いちゃうくらい嬉しい。
話しはちょっと変わるけど、ここ最近出会ったMotherなアーティストの作品2つの事を。

初めに、山口法子さんの「台所のそこなし」というとても感銘を受けた絵本。
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最初のページの序文から、ハッと感銘を受けた。
載せさせて頂くと、
「ここは台所 すみっこには机があって うまく潜れた時には 少し遠くの場所へ 行ける時もある」

山口法子さんは台所のすみっこの机が制作の場所らしい。小さな娘さんの事も、とてもとても可愛らしく美しくあたたかい絵と一緒に登場する。
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私はアーティストじゃないし何も作品は生み出せないけど、お子さんを持つご家庭の台所の稼働率の高さは良く知っているし、「家の中で自分がいる場所、台所率高いよね」って周りのママさん達と話した事もある。そんな「台所」から生まれる物語りや作品。なんて素敵なんだろうって、限りなく「憧れ」に近い、そしてある種の絶望に繋がる気持ちで、このご本の中の世界に入った。

「憧れ」について。
私はアーティストじゃないから何も生み出せないけど、子供の頃から空想・妄想癖があって、台所で料理や片付けをしている時も何か別の世界を思い浮かべている事がある。そんな台所で、ご自身の持つ世界に「潜り」、作品を生み出しているアーティスト。憧れない訳がない。この、「自身の世界の深淵に潜り、ちゃんと何かを持ち帰って世に出せる」というのが、アーティスト。ただ自分の妄想世界でバタバタ下手な泳ぎで遊んでいるのが、私のようなシロウト妄想癖。はぁ〜。。(ため息)

「ある種の絶望」について。
山口法子さんの物語りに登場する「ヨキ」と言う女の子も、娘さんがモデルなのかな。とてもとても可愛いらしい「ヨキ」と、ファンタジー小説が大好きな私には親しみさえ湧く不思議な生き物たちと、幻想的な情景が織り成す物語りと、愛情深く描かれる娘さんのエピソードが交錯しているのが、本当に素敵。
こんな素敵な「母と娘」。私が得られなくて、そして随分長い間、目の当たりにすると、嫉妬のような憎悪のような絶望に駆られていた事象。

一言、「毒親育ちです!」で済ませてもいいんだけど、色々込み入った事情もあってそうも言い表せない・したくないし、私は逃避型の人間で、ざっっくりイマドキ風に言うと「毒親」であったであろう母からは、「逃げ切った!!!」達成感があるので(笑)もう、どうでも良いと言えば良いのだけど、
素敵な「母と娘」の物語りに触れると、トラウマのように、ちょっと、絶望が顔を出す。


そんな母と娘の良好な関係を築けなかった私に、
「ああ、やっぱり大丈夫なんだ。私も母も大丈夫なんだ、ちゃんと、守られていたんだ。」って確認させてもらえた作品に、同時期に出会って。

森本ナオコさんの、「MOTHER」と言う、大きな絵。人間の真理、宇宙の真理、のような、大きな「愛」の絵。森本さんご本人に「お母さん達の絵なんです。先頭は私です。」とお話しを伺えたのも、何かのご縁かと思い、ありがたかった。


私はファンタジーとSFをとても信頼していて、フィクション・幻想どころかむしろ真理、みたいに思っているのだけど、それは、森本ナオコさんの作品に示されているような、人間1人1人は小さな存在だけど皆大きな何かと繋がっている、永遠とも言える長い時間、宇宙に繋がる広大な世界、そして大きな大きな愛、そんな事を感じさせてくれる作品が多くあるから。森本さんの「MOTHER」で言う所の、「先頭と2番手」の短い繋がりに過ぎない私と母の狭い世界が破綻していた所で、その後ろにどーーんと控えておられる方々から受け継いでいるものもあるのだから、私も母も大丈夫、お互い今回の人生は上手く通じ合えてないけど、そう言う修行なんだよね、お互い頑張ったよね、あちらの世界に還った時、御先祖も労って下さるよきっとね、みたいな、寛大な気持ちになれた。

自分も母なのに、上記の2つの作品に何故かあまり「同じ母としての共感」 のようなものは出てこなかったのも、とても良かったと思っている。深く自分の心と繋がるような「共感」も必要な時もあるけど、アーティストや表現作品は「気づき」を与えて下さる事の方がが多いかも。

MotherなアーティストにもMotherじゃないアーティストにもいつも感謝しています。カーネーションで良ければ贈りたい気持ち。

めぐりめぐってアンリ・ルソー。

学芸大学の素敵な本屋さん SUNNY BOY BOOKSで開催中の、「大模写展」拝見して来た。


総勢36名の作家さんそれぞれの魅力が炸裂していた。模写であるからこそ、逆にオリジナリティが溢れ出した、みたいな事なのかなぁ。創り発信する側の方がどんな想いとエネルギーで「模写」と言うものに挑むのかは全くわからないけれど、受け取る側としては、「逆に個性と魅力炸裂じゃん!原作の作者も面食らうわこれ!」みたいに最高に楽しかった。です。

で、36名皆様の作品の感想を全部書きたい所ではあるけれどそんな筆力もないし、全ての模写作品とオリジナル作品を見比べられる記念冊子も作られるそうなので。そちらを楽しみに。

ひとつだけ、長い自分語り。

初めて「絵画」を観に行ったのは、太古の大昔、十代後半頃で大昔過ぎて記憶がアレだけど、「バーンズコレクション展」と言うのが、上野の国立西洋美術館(だったかなぁ、上野だったのは間違いない)で開催されていて、友達がチケットを持っているからと誘ってくれた。なんでもその友達のお父さんが美大出身で絵画が好きで、家に画集などがあったり、友達もまぁまぁ詳しいらしかった。

そんな頼もしい友達の解説付きで、米国のバーンズ財団と言う所が蒐集した名画達を、ワクワクしながら観た。友達は「印象派」が好きなんだと言っていたな。美術に何の知識も無かったけれど、ひとつ、「うわぁぁ・・・好きだなこれ!」って、琴線に触れた絵があったので、その絵のポストカードを買って帰ったんだ。今も手元にある。
アンリ・ルソーの「熱帯の森を散歩する女」。
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一番最初に好きになった画家さんが、アンリ・ルソー、って事になるのかな。その後図書館で画集を見たりして、他の絵もいいなぁ、好きだなぁと思た。他にも「詩人に霊感を与えるミューズ」って言う絵とか、「題名がまず凄い」と思って題名惚れしたり。翻訳だからまぁ、不思議な言葉に感じただけかもだけど。

そして歳月は流れ、子供達も大きくなりだいぶ手を離れて、少しは自分の好きな本とか音楽とか芸術とかに触れる時間が戻って来た。自分よりも随分お若い世代のアーティストのファンになる事も増えて来た。
そのアーティストの中で、「大模写展」で、アンリ・ルソーの絵を模写された方が。

大昔に一番最初にファンなった画家さんと、一番近年ファンになった画家さんが繋がる、と言う、私にしかわからない不思議で感動的でミラクルなこの感じ。控えめに言って、最高です(笑)

きたしまたくやさんの「眠るジプシーの女」は、キラキラ光っていて、夢の中のような神秘的な美しさだなぁと思った。(下地に金色を良く使う、と言うお話しを伺った事が。キラキラの秘密はそれだろうか)ジプシーの女性の目も、宝石のサファイヤのように綺麗で驚いた。原画のジプシーの女性は目を閉じているから・・・・・って、そうだ、書いてて気がついたけれど、「眠るジプシーの女」だけど、きたしまさんの絵は目を開いたまま眠っているのか。。興味深いなー。

全体的には、濃密で力強い世界だなと感じた。一緒に観た友人は「キッチリしっかりした感じの絵だ」と言っていた。確かに、アンリ・ルソーの原画の方が、なんて言うかな、プリミティブ、と言うのとはちょっと違うのだろうけど、キッチリはしてないよな。「素朴派」と言うらしいから、素朴、と言う事かな。

そんなこんなで、ダラダラ感想を書いているとエンドレスなのでこの辺で。不惑の年頃になって、こういう偶然と言うか、ご縁のような喜びを感じる事が時々ある。まるで、子供時代の伏線を回収しているような感覚。

ニムロッドとAINOUと神戸と日比谷

部屋とYシャツと私」みたいな日記タイトルになってしまったが・・・。幾つかの出来事が頭の中で繋がって、ぐるぐるしているので日記で整理しようそうしよう。

1月17日。今日は阪神淡路大震災の起こった、追悼と鎮魂の日ですね。神戸出身の友人が2人いて、お二人とも「ほんま」に大好きな、出会えて良かったなぁって思っている人だから、生きて、私に出会ってくれて「ほんま」にありがとうね。って感謝する日でもある。もちろん、出会えた大好きな人全てにに感謝している。

東京の日比谷公園でも、阪神淡路大震災の追悼式が行われているらしい。神戸出身の友人mちゃんとnちゃんは、今は東京で暮らしている。
そうだ、mちゃんと初めて会ったのは、日比谷公園だった。


昨日Twitterを眺めていたら、フォロワーさんは音楽好きか本好きの方々が殆どなせいか、
上田岳弘さんの小説「ニムロッド」が芥川賞を受賞し、そのタイトルがPeople In The Boxの楽曲「ニムロッド」から取ったものだと言う話題で賑わっていた。上田さんは、兵庫県明石市のご出身だそうだ。偶然。阪神淡路大震災を経験されているかは知らないのだが。

mちゃんと初めて会ったのは、People初の、日比谷野外音楽堂ワンマンライブの日だったんだ。もう、9年も前になるんだな。

Peopleの「ニムロッド」は、東日本大震災原発事故へのやり場のない「怒り」が作品のモチベーションとなっていると言うアルバム「Citizen Soul」に収録されていて、
「あの太陽が偽物だって どうして誰も気づかないんだろう」と言う繰り返し歌われるフレーズが象徴的だなと思っていた。最近聴いてないなーこのアルバムは。


神戸と日比谷、2人の神戸出身の友人、阪神淡路大震災東日本大震災、様々な記憶や想いが、2つの「ニムロッド」を介して繋がって頭の中ぐるぐる。


Peopleファンの人は本当に「本好き」が多いよね。
最近の作品はそうでもないけど、聴いていると「脳内が本を読んでいる時と同じ状態になる」音楽だったから、まだ子供達に手がかかって時間が無く、あまり本が読めなかった時期に、非常にありがたい音楽だったな。5分そこそこの短い時間にぎゅううっと、小説とか映画とかのイメージを詰め込んでくれてる感じで。

ファン仲間から「読んでない奴皆ニムロッドはよ読め」圧がけっこう感じられ(笑)、読まないとPeopleファン破門にされそうだけど、自分の好みとしては自ら選ぶタイプのご本じゃない。から、こういう機会があって良かったかな。

でもどうかなぁ。子供の頃、若い頃は、とにかく学校や図書館にある本を片っ端から読んだ。そうして、自分が好きな世界、苦手な世界を知った。
好奇心はそんなに衰えた感無いけど、もう、好きだなぁと思う「終の住処」みたいな世界に浸っていたっていい年齢なんじゃないかと、思ったりもする。


せっかくだから久しぶりに「ニムロッド」
を聴こうかなと思いつつ、そう言う気分でも無く。音楽こそ、その時の季節や気候や景色や気分、「時」に添うものだよなぁ。

なので、mちゃんが先日貸してくれた、中村佳穂さんのアルバム「AINOU」を聴きながら日記を書いた。多くのミュージシャンが凄い凄いとド肝を抜かれた様子だったアルバム。ほんとすごいなこれは。一般人、ただの音楽好きの私は、表現できる言葉を持っていない。
生命感、魂の躍動、のようなものは感じる。

先に天に召された人々を懐かしみ、
「生きている、生きて行く」と言う事を思うこういう日には、なかなか似合っている音楽かな、と思った。

「『百年の孤独 』を代わりに読む」を代わりに読む

長年、本や音楽などの感想や思い付いた事等をアナログにノートに手書きで、メモ以上日記未満程度に書いていたんだが、イマドキは日記を書く人も詩や小説等を書いている人もほとんど、パソコンやらスマホやらだとか。そりゃ便利だよな。誰に見られても良い範囲、になってしまうだろうけど。


短い言葉で感想まとめられて、自分の外に出したい時はTwitterを使っているんだけど、
「ちょっとこの本凄い面白いし初めて目にする手法だし、感想を外に出したいけど、構造が複雑過ぎて私のお花畑ファンタジーな脳ミソでは言語化出来るかな・・・とりあえずTwitterなんかじゃ何連投しても無理かも。・・・長文書ける簡易ブログとかでブツブツ考えながら書いたら楽しいかもな。」
てな具合で、ほぼほぼ、昨年11月の文学フリマ東京で購入した、

百年の孤独』を代わりに読む- 友田とん

の感想を言いたいがためにはてなブログ登録しました。・・・前置き長いな。初ブログだしまぁいいか。

で、こちらのご本はタイトル通り、かの有名なガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読んでいない、あるいは今後も読まないであろう人の為に、筆者が代行して読んでくれている。と言う形態の本なんだけど、残念ながら私は自分で読んでしまっているので、本当の意味で、筆者の意図する「読者」にはなれないんだよなー。だからほんと、これからも「百年の孤独」を、「絶対」レベルで読まないよ、と言う友人知人に是非ともゴリ押しして行こうとおもう。

このご本の感想言うのが何故難しいかと言うと、
構造が二重構造、いや三重?になっているんだ。「代わりに読んでくれる」って言うと、本文をかいつまんでわかりやすく粗筋を説明してくれて、
筆者の感情感想なども交え、読んだ気にさせてくれる本、みたいに思われるかもしれないんだけれど。

確かに、本文を引用してラストシーンまで駆け抜けて(読み抜けて?)いるんだが、
・本文をそのまま引用
・本文を読んでいる筆者が全く別の本やドラマや映画のシーンを連想し、重ね合わせているいわば「意図的な脱線」
・この「代わりに読む」と言う行為は何なのか自問自答、試行錯誤しながら苦悩している筆者と協力者のドキュメンタリー

あ・・・三重構造か。これが同時進行しているもんだから、読者は結構遠い距離からこの三つを俯瞰して眺めないと、ちょっと、「あれ?私今何を読んでるんだっけ?」みたいになる。と思うんだよな。百年の孤独を読んだ事が無い人は余計に。

しかし、「この本好きだな〜〜出会えて良かった感想長々と書いて人に薦めたい」ってなったのは、やはり「抜群のユーモアセンス」。これは個人的な好みなんだけど、私にとっては「ユーモアの欠落」って、けっこう致命的で。もちろん、シリアスで底抜けに悲しく美しい物語、なんかも感涙して読んだりするけど、そう言うものはメンタルが弱いので心打ちのめされすぎるので、ユーモアって、ふっと頭と心を緩めてくれる、少しでもあって欲しい視点なんだ。

何度か電車の中でも読んだんだけど、「ふっ・・・」て思わず笑いが漏れてしまう箇所もあって、外で読むのはやめました。はい。

その筆者の絶妙なツッコミセンスにより、「百年の孤独ってこんなにツッコミどころ満載の面白い話しだっけ??」と、激的なガルシア・マルケス節の世界からちょっと離れて肩の力を抜いてもう一度読んだような気になったし、物語全体や登場人物への愛着も湧いてきた。
(すなわち自分で読んだ人もとても楽しめると言う事だね)

そしてなんと言っても読みどころは、筆者の華麗なる「脱線手法」。百年の孤独の各場面から脱線して連想された、筆者が愛すべきものたちは、ドリフのコントから懐かしのトレンディドラマ、私も大好きだった「Back To The Future」のあるシーンにまで多岐に渡る。(筆者、同年代か少し上の世代の方だろうか・・・) えっ??このシーンがそこ行く??
ウルスラ(この物語の一族のオカン)が田中美佐子??・・・驚きと、感嘆と、それから、海外文学の翻訳本苦手な人にも読みやすくなる、と言う効果もあるだろうな。


百年の孤独」本編ばりに感想長くなって来たのでこのへんで無理やり終わらせよう。
ノーベル文学賞作家、海外文学でわりと長編。と聞くだけで、苦手〜、読まない〜、と言う方もいるかもしれない。筆者の友田とんさんは、ご自身の「百年の孤独」への愛をもって、そう言う方々にも、良さ、面白さを伝えて下さっている。知的でユーモアに満ち、文章そのもの私は好きでした。
これほんと、色々な人に薦めたいけど、1番は、
ガルシア・マルケスに読んで欲しい!!

でも、筆者が4年もの長い年月をかけて「代わりに読んだ」偉業をなしえたのは、天国からガルシア・ルケスが応援してたのかもな。なんて、最後ちょっとロマンチックにしてしまった。